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ダラス留学記

“自分は出会いの縁に恵まれていると思う。”
私は岡山大学消化器外科に所属する外科医だが、個人病院に2年半程勤務していた時期があり、糖尿病診療も行っていた。そのため大学に帰局した際、膵島移植に興味を持ち、大学院生として小玉正太教授が率いる福岡大学医学部再生・移植医学講座に国内留学させて頂く事となった。2014年10月秋の事である。当時、岡山大学と福岡大学に特に交流はなく、双方の事務方がいろいろな取り決めの文書類を作成していたのを思い出す。2016年9月までの2年間在籍し、その間貴重な臨床膵島移植症例を経験すると共に博士論文を書かせて頂いた。そしてこれが縁で伊東威先生が留学していたアメリカのベーラー大学に研究留学できる事になった。そしてこれまた伊東先生に妻を紹介して頂き、結婚式を博多で盛大に行った2か月後の2017年11月、アメリカで新婚生活と研究生活をスタートさせた。

まず留学先の紹介をしよう。所属はテキサス州ダラス市内にあるベーラー大学メディカルセンター内の膵島研究所(以下、当ラボ)で、臨床自家膵島移植と基礎研究の両方を行っている。アメリカでは現在、内科的治療が無効の難治性慢性膵炎患者を対象とした膵臓全摘+自家膵島移植(Total Pancreatectomy With Islet Auto-Transplantation; 以下TPIAT)が民間保険の適応となっており、全米20施設以上で行われている。TPIATにより膵全摘後の糖尿病発症をある程度防ぐことができ(約3分の1の患者が術後インスリン補充治療を必要としない)、疼痛コントロールに関しても良好な成績を上げている。当ラボでは2006年からTPIATを開始し、これまでの症例数は2020年9月で200例に達している。手術は膵臓摘出までを外科医が行い、その後の膵島抽出のプロセスを当ラボが担当し、術野から直接門脈に挿入されたカテーテルを通して患者に膵島を注入する(移植された自己膵島は肝臓の門脈枝にトラップされ生着する)のが一般的である。当ラボではその豊富な症例データを統計解析した臨床論文から、マウスやヒト細胞を用いた膵島移植に関する橋渡し研究まで幅広く行うことで、これまで多数の論文を発表している。ところでつい最近日本で保険適応となった同種異系(アロ)膵島移植については、逆にアメリカでは保険適応となっていない。この背景にはFDA(Food and Drug Administration)がアロ膵島移植に、新薬同等の承認プロセスを求めており、これが非常に高いハードルとなっているためである。話を戻すと、現在ラボの日本人は私だけだが、ラボ発足時にPIだった現大塚製薬の松本慎一先生を始め、日本人が多数在籍していた時期もあり、現インド人ボスであるBashoo Naziruddin先生の日本人に対する信頼は厚く、非常に居心地がよい環境である。

しかし留学生活は何が起こるかわからない。留学から1年が過ぎ、やっとマウスを使った移植実験も安定し結果が出始めた頃、突然ベーラーの基礎部門の縮小方針が打ち出され、マウス施設が閉鎖される事になった。どうやらベーラーは臨床部門に資源を集中する事を決めたらしい。結局多くの研究員は転職先を斡旋されて退職し、基礎系ラボは当ラボを含めて最終的に3つになった。さらに点在していたラボを1つの建物に集約するため、ラボの引っ越しも経験した。

そして2019年末から始まったコロナパンデミックにより、アメリカも大きな影響を受けた。アメリカだけで20万人以上が犠牲となり、研究も一旦ストップした。そんなコロナ渦の2020年6月に長女が生まれた(書き忘れたが2018年に長男が誕生)。日本から義母が来る予定だったが困難となり、妻と二人だけで乗り越えなければならなくなった。娘が生まれてしばらくはあまり仕事ができなかったが、それでも給料を出し続けてくれたNaziruddin先生には感謝しかない。約3年間の研究生活を振り返ると、45例以上のTPIATを経験し、国際学会での口頭発表、論文も複数本書くことができた。その中には他施設とのコラボ研究成果もある。

この原稿を書いているのは2020年10月であり、帰国は2021年2月に迫っている。あまり旅行などの贅沢はできなかったが、フロリダのディズニーワールドやグランドキャニオンなど忘れられない思い出がたくさんある。ダラスは気候がよく、日本食スーパーもあり、日常生活に困る事はない。できる事ならずっと住んでいたいぐらいだ。もちろんアメリカには貧富の差や人種差別、医療制度など負の面もあるが、それ以上にこの国の世界をリードする力強さを肌で感じた。この留学経験を日本で活かす事ができれば最高だが、今はこの留学の機会を与えて下さった小玉教授と伊東先生、そしてアメリカで出会った多くの人達とのめぐり逢いに感謝している。

 

   

2020年10月
熊野健二郎