昭和47年(1972)1月29日,医学部の設置が認可され,4月1日に開学。昭和49年(1974)4月,永田武明が九州大学(助教授)より初代教授として赴任し,法医学講座を開講。昭和51年(1976)4月より講義開始。昭和60年(1985)1月,永田武明は九州大学教授として転出。昭和61年(1986)4月,柏村征一が山形大学(助教授)より第2代教授として赴任。平成20年(2008)3月,柏村征一退職。同年4月,久保真一が徳島大学(教授)より第3代教授に就任し,現在に至る。
法中毒学を中心に,法医病理学,法医血清遺伝学の研究に取り組んでいる。
法医解剖は,年間100体程度で、福岡県下の法医解剖(司法解剖,死因身元調査法解剖,承諾解剖)に加え,隣接する県の法医解剖も受け入れている。
薬毒物分析に関しては,他大学法医学教室,監察医機関,警察機関からの依頼を積極的に受け入れている。
日本法中毒学会:第38年会(会長:久保 真一)
日本法医学会学術全国集会:第102次(会長:久保 真一)
国際法医学シンポジウム:第9回(会長:久保 真一)
9th International Symposium on Advances in Legal Medicine(ISALM)
日本法医学会総会:第90次(会長:柏村 征一)
日本賠償科学会:第46回研究会(会長:柏村 征一)
日本法中毒学会:第24年会(会長:柏村 征一)
樗会の名前の由来は「樗」創刊号の巻頭言に詳しく述べられています
同門会会長 柏村征一
福岡大学医学部法医学教室の同門会「樗会」が発足してから早くも1年が過ぎま した。
この1年間に教室にも色々な出来事がありましたし、会員の皆様にも色々なこ とがあったことと思います。それらは会員報告の中で遂次述べられることでしょ うから、ここでは本会の名前となった樗について、その名の由来と意味について 述べてみたいと思います。
御承知のように樗とはとてつもなく大きな木の名前です。但し、実在の木では ありませんし、過去にも存在した事実はありません。この木は荘子の思想を編し た「荘子」書の逍遥遊編の無何有の郷の項に記載されているものです。原文(漢 文)では難しいので、訳文(和文)を引用します。
恵子、荘子に謂いて曰く「われに大樹あり、人これを樗と謂う。その大木は擁 腫にして縄墨に中らず、その小枝は巻曲にして規矩に中らず。これを塗に立つる に匠者も顧みず。今の子の言、大にして用なし。衆の同じく去るところなり。」
荘子曰く、「・・・略・・・。今、子大樹ありて、その用なきを患えば、なんぞこれ を無何有の郷、広莫の野に樹えて、彷徨呼としてその側に無為に、逍遥呼として その下に寝臥せざるや。斤斧に无せられず、物の害することなし。用うべきとこ ろなきも、いずくんぞ困苦するところにあらんや。」
これを現代文にすると、次のとおりです。
恵子が荘子に謂った「私の所にとてつもなくでかい樹があります。何でも樗と 謂う樹だそうです。幹はとほうもなく太く、ゴツゴツと節くれだって、測量の為 の墨縄もあてられないし、枝は曲がりくねって曲尺で測ることもできません。だ から木材として切り出すこともできず、全く何の役にも立たない無用の長物です。 だから近くにあるのに大工の棟梁たちは見向きもしない。君の謂っていることも この樹みたいなもので、謂うことはでかいが、何の役にも立たない。世間から相 手にされる筈がないさ。」そこで荘子が謂いかえした。「・・・略・・・。君のところ にそんな大樹があるなら、それが何の役にも立たないからと言って嘆くことはな いではないか。そもそも、ちっぽけで自分勝手な人間が自分達の役に立つか否か で物の価値を判断することが大間違いなのだ。天地自然にある万物は、人間など というちっぽけなものとは全く無関係に存在していることがわからないのか。そ れほどの大樹なら無何有の郷(わずらわしい毀誉褒貶の世を超越した塵外の理想 郷)の広莫の野に植えて、全ての規範から解き放たれた悠々とした気持ちでその 木のかたわらを逍遥したり、その木蔭で涼しいそよ風に吹かれながら昼寝などし て憩えばよろしい。こんなすばらしい樹がありながら、何の役にも立たない樹な どと謂って嘆くものじゃないよ。」
荘子とは戦国中期(西暦紀元前四世紀)の思想家荘周のことで、彼は老子と共 に“老荘”と称せられ、儒家・墨家と県立する道家の中心的思想家です。我国で は、君に忠・親に孝を説く儒教思想が封建社会の維持に絶好であったことから、 徳川時代に特に重視され、儒者全盛となり現代に到っています。彼等は荘子を非 実践的・逃避的・傍観者的思想家と位置づけ、時には敗者の負け惜しみとまで評 しました。それは荘子が小ざかしい知恵・目先の欲望・立身出世といったものを 嘲笑していることに由来します。が、荘子が単なる“世捨人”であったとしたら、 果たして古来から数知れぬほどの読者を魅了させ続けることができたであろうか。
荘子は、一切の虚飾をはぎ取り、あるがままの姿を示してくれる。その姿を無 心の境地で直視した上で、現実から眼をそらすか、これに立ち向かうか、それは 読む者の自由である。この辺に荘子の魔力がひそんでいます。さらに、「荘子」 の魅力はその独特な文章にあります。空想豊かで現実を超越した世界がそこに展 開され、我々を“渾沌”の中に彷徨させてくれます。
「荘子」に載っているとてつもなく大きなものとしては鯤と鵬がよく知られて います。鯤は頭から尾まで何千里あるかわからないほど巨大な魚で、この鯤が変 身すると鵬という巨大な鳥になります(元横綱大鵬のシコ名の出典となった。何 千里とも知れぬ胴体、翼をひろげて飛び立てば、空は一面黒雲に覆われたように なる。鯤も鵬も激しく動き回る動物です。怒涛を逆巻いて泳ぐ鯤の姿、ひとたび 羽ばたくと暴風を巻き起こして飛翔する鵬の姿を想い浮かべると、その雄壮さに 心躍るものがあり、その荘厳さに打たれ、その激しさに怖れおののかされます。 それに対して、樗は動かない樹です。大地にしっかりと根を張って、強烈な日光 を遮って柔らかな木漏れ日となし、全てを吹き飛ばさずにはいられないような大 風にも微動だにせず、枝葉の間を通ることによりそよ風となし、絶好の憩いの場 を創造しています。それでいて何ら自己主張をするでもなく、人間からは無用の 邪魔者と嘲けられても全く意に介さず、全てを超越している。あたかも黙想して いるかの如く、閑かに、それでいて威風堂々と立ちつくす姿を思い浮かべると、 その荘厳さに胸を打たれ、その崇高さに畏敬の念すら湧いてきます。動かないか らこそ、動くものよりはるかに奥の深さがうかがわれます。その奥深さは何に由 来するのであろうか。それは根であると私は考えます。本書にはこの樹の具体的 な大きさは書いてありませんが、鯤や鵬の大きさから類推すると、この樹の枝葉 の拡がりもやはり何千里という広さであることは容易に想像できます。昔から “根ほど葉広がる”という言葉どおり、根と葉の拡がりは同じであることから、 この大樹の根も何千里も拡がって大地にしっかりとくい込んでいることがわかり ます。即ち、この根の拡がりと張りの強さがこの巨木を支えているのです。この ことは、何事においても基礎や土台がいかに大切かを示しています。その上、こ の根をかくも広範囲にしっかりとはいめぐらせることを可能にした土壌の存在も 忘れることはできません。この様に、ほとんど脚光を浴びることのない縁の下の 力持ちの存在なしには地上部分は育たないのです。
この様に深い含蓄のある樗を同門会の名に選んだ会員の皆様に敬意を表すると 共に、この名を誇らしく思います。これからも、この名に恥じないように世間の 毀誉褒貶に右顧左眄することなく、しっかりと大地に足を踏んばって地道に、そ して確実に活動していきたいものです。
(平成6年1月3日)